大判例

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東京地方裁判所 昭和52年(ワ)12296号 判決

原告

小林栄次

右訴訟代理人

堂野達也

外二名

被告

右代表者法務大臣

奥野誠亮

右指定代理人

一宮和夫

外五名

主文

一  被告は、原告に対し、金一五八二万二二八〇円及びこれに対する昭和五三年一月一四日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は、これを四分し、その三を原告の負担とし、その余を被告の負担とする。

四  この判決は第一項に限り仮に執行することができる。

事実

〈前略〉

第二 当事者の主張

一  請求原因

1  診療事故の発生

原告は、昭和五一年五月七日、国立千葉大学医学部附属病院(以下「千葉大病院」という。)第二外科において、訴外古川隆男医師(以下「古川医師」という。)により組織検査のための左頸部腫瘤摘出手術実施中、第五、第六頸椎神経切断の事故(以下「本件事故」という。)に遭つた。〈以下、事実省略〉

理由

一診療事故の発生

請求原因一1の事実(本件事故の発生)は当事者間に争いがない。

二事故発生に至る経緯

〈証拠〉によれば、本件診療事故発生に至る経緯及びその後の情況として以下の事実を認めることができる。

1  原告は、昭和五〇年九月二六日、顔面及び下肢浮腫、全身倦怠感を主訴として鈴木医院を訪ずれた際、左頸部に小指頭大の腫瘤を発見された。鈴木医師は、原告に対し、胃及び大腸のレントゲン検査を施行したが、特に右主訴につながるような異常所見を認めず、一週ないし二週おきの五回に亘る糞便の潜血反応検査においても、最初の二回が陽性を示しただけでその後は陰性を示し、血液検査、尿検査、肝機能検査の結果もいずれも正常であつたものの、どうしても全身倦怠感がとれず、通院中に三キログラムも痩せ、又左頸部の腫瘤も消失しないため、千葉大病院宛に紹介状を書き、ウイルヒヨウの転移の疑いのあるものとして精密検査を依頼した。

2  原告は、同年一一月一八日千葉大病院を訪ずれ、予診において外来担当医師の診察を受けた。同医師は、胃レントゲン撮影をなし、さらに血液一般検査、肝機能検査、尿一般検査、便一般検査を行うために血液、尿を採取した。

また、同月二五日には注腸造影にて大腸のレントゲン撮影を施行した。

3  同年一二月九日、右諸検査の結果が出揃い、原告は新来患者診断(一診)で小高助教授の診察を受けたが、肝機能検査の結果にやや異常を認めるだけでその余の検査結果に異常はなく、左頸部の腫瘤についても特に変化は認められなかつたので、同助教授は一か月後に再度肝機能検査をすることとし暫く経過をみるとともに、左頸部の腫瘤についても同様に経過観察をすることとした。

4  昭和五一年一月一三日、原告は、外来担当の医師に対し、全身の倦怠感は消失し、食欲もあり糞便の色調も正常で体重の減少もないが、左頸部の腫瘤についてはやや大きくなつた感じがする旨を訴えたので、さらに一診において佐藤教授が診察した。同教授は、右腫瘤につき、左頸部リンパ腺の腫瘤であると考えられるが、とりあえず経過を観察することとし、原告に対し、二月初めに改めて来院するよう指示した。

5  原告は、同年二月三日来院し、一診で小高助教授の診察を受けた。左頸部の腫瘤は大きくなつていないようであり、大きさは小指頭大、形は楕円形で、硬い状態であつた。小高助教授は、右腫瘤につき神経鞘腫の疑いがあるので経過をみることとし、原告に対し、一ないし二か月に一回の割合で必ず来院するよう指示した。

6  原告は、同年四月二六日来院したが、腫瘤は硬く、大きさに変化は認められなかつた。

7  原告は、同年五月四日来院し、一診担当の佐藤教授がこれを診察した。同教授は、左頸部腫瘤につき組織検査を行う旨決定し、原告に対し、同年五月七日に右検査のための腫瘤組織片の摘出手術(プローべ)を行う旨、検査後は直ちに帰宅でき入院の必要はない旨を告げた。

8  右手術は、同年五月七日午前九時半頃から第二外科外来診察室の手術台兼診察台で看護婦一人が立合い古川医師の執刀で開始された。なお、右手術に先立つて一般状態を把握するための特別の検査はなされず、古川医師はカルテに目を通して従来の経過と病状を把握し、当日の原告の全身状態を観察して異常がないものと認め、付添いで来ていた原告の叔母にあたる小林鈴子からの手術程度に関する質問に対しても、簡単な手術でありすぐに帰れる旨を話した。

手術は、原告の上半身を裸にし、右手術台兼診察台に仰臥させて左上肢を手台に固定したうえ、左頸部を中心に消毒し、局所麻酔をなした後、腫瘤の直上部で約三センチメートルにわたつて皮膚切開を加え、皮下組織を鈍的に分けて鉤をかけ、さらに筋肉を分けて腫瘤を露出させる手法で行われ、右皮膚切開開始頃大沼医師が介助者として立会つた。

右切開後の古川医師の所見によると原告の腫瘤は腕神経鞘に発生する腫瘍(神経鞘腫)であつたが、右手術の執刀医であつた古川医師は、右切開後組織検査のための組織片を採取する際誤つて右腫瘍の発生している神経線維まで切断してしまつたため、原告から左上肢の運動障害を訴えられるに至つた。

9  そこで、古川医師は直ちに中央手術室において手術中であつた小高助教授に報告をなし、その指示で、原告の入院手続をとるとともに、千葉大病院脳神経外科の山浦医師に原告の診察を求めたところ、同医師は、第五、第六頸椎神経欠損による三角筋と上腕二頭筋の麻痺(欠落症状)との診断を下し、神経移植の必要性を示唆した。

そして、同日午後五時頃小高助教授の手術が終了し、午後六時頃学会出席中の佐藤教授との連絡もとれた段階で、原告に対し小高助教授の執刀による神経移植手術を行うことが決定され、同日午後七時、漸く同助教授の執刀により、第七、第八肋間神経移植手術が行われ、午後一一時三〇分終了した。

三被告の責任

以上の認定事実によれば、原告と被告間には、昭和五〇年一一月一八日、原告の左頸部腫瘤の診察、治療を目的とする診療契約が成立したものというべく、被告の履行補助者たる吉川医師は、左頸部腫瘤診断の目的で右腫瘤の組織片摘出手術を施行するに際し、右腫瘤の所在場所が腕神経叢など重要な神経叢が存在する場所であるから、右神経を傷害することのないように注意して執刀すべき注意義務があるのに拘らず、不用意な執刀により原告の第五、第六頸椎神経を切断したものであるから、被告には前記診療契約上の債務不履行があるものというべく、原告に対し右債務不履行によつて生じた次項の損害を賠償すべき義務がある。

なお、被告は、本件事故は右古川医師が本件左頸部腫瘤につき神経鞘腫の悪性化を強く疑い、且つ右腫瘤が神経軸索と強固に癒着しており、神経鞘の一部だけを切除することが不可能であつたため、正常な部分を含めて腫瘤全部を摘出する試験切除法をとつたところ、当該部分が偶々第五、第六頸椎神経の一部を含んでいたためにおきた欠落症状であると主張し、証人古川の証言中にはこれに沿う部分もある。

しかしながら(一)前記認定のとおり、原告の腫瘤は、右手術時の所見により神経鞘腫であることが判明しているところ、甲第四号証によれば、成書には、神経鞘腫は頸部腫瘍中通常良性腫瘍としてあげられ、悪性化することは殆んどなく重要な神経、器官を犠牲にしてまでの摘出はすべきでない旨の記載があり、現に乙第四号証の一、二によれば、本件腫瘤には術後の病理組織検査により悪性化の像はないことが確認されていることがそれぞれ認められ、また、証人古川の証言によれば、神経鞘腫の良性悪性の判定基準として、良性の場合には腫瘤の増殖が緩慢で、健常部との境がはつきりしており球形とか玉子形が多く、悪性の場合は短期間に増大し、健常部との境が不分明で、多くは紡錘形をしているということが挙げられているところ、切開時の所見によれば、本件腫瘤は、紡鍾形で健常部との境が必ずしも明確でなかつたことが認められるが、他方、前掲乙第三号証の一ないし一〇によれば、本件腫瘤は鈴木医院において昭和五〇年九月二六日初めて発見されて以来、翌昭和五一年五月七日の手術時に至るまで、鈴木医師から千葉大病院宛ての紹介状、千葉大病院診療録には一貫して「小指頭大」と記載されており、短期間に急激に増大したものとは認められないこと、前掲乙第四号証の一、二及び証人古川の証言によれば、本件腫瘤は、表面が非常になめらかで、カプセル様のもので被われており、原告は全く痛みなどを訴えていなかつたことが認められるが、前掲甲第四号証によれば、右の如きは一般に良性の神経鞘腫のメルクマールとして成書に「表面平滑」、「被包良好」「無症状」と記載されていることに合致するものであることを認め得ることなどからして、本件腫瘤が手術時の所見から直ちに悪性であると疑うようなものであつたとは認め難いこと、(二)証人古川の証言によれば、神経鞘腫につき健常部をも含めて腫瘤全部を摘出した場合には往々にして神経切断による欠落症状が起こり、この場合神経移植手術が必要となることが当然予想されることが認められるところ、同証言によれば、千葉大病院においては、中央手術部システムがとられ、各科による同手術室の使用には事前の手配を要するところ、当日第二外科においては右神経移植手術のための手術室の確保等の準備は全くなしておらず、原告に対し即日帰宅でき入院の必要はない旨繰返し告げていること、そして、前記認定のとおり、本件手術は第二外科の外来診察室において行われたものであるが、証人古川の証言によれば、同診察室における手術は外来患者の比較的軽微なものに限られていたことが認められること、また、本件手術に至る経緯が、当初鈴木医院からリンパ腺腫の疑いということで紹介されて以来経過観察をなしていたが、リンパ腺腫、神経鞘腫が疑われたものの急激な増大が見られない状況で、組織検査を決定するに至つたことからして、本件手術が神経移植術が必要になる可能性の高い健常部をも含めた腫瘤全部の摘出にまでいたることは全く予想せず、あくまでも組織検査のための一部組織片摘出手術として予定されていたと認められること、(三)また、千葉大病院の検査態勢を見るに、証人古川の証言及び前出乙第四号証の一、二によれば、本件の如き組織片の病理組織検査については、通常一〇日間位を要するが、本件については大至急という依頼付きで二日で結果を知り得ているところ、本件について、右程度の期間を待ち得ない程の緊急性を認めることができないし、また、右証拠によれば凍結切片法によると二〇分位で結果を知り得ると認められるところ、軟部組織であるが故に右方法が絶対に採り得ないということも認められず、一方で欠落症状という重大な障害が予測できたことは既に見たとおりであるにも拘らず、右の如き検査方法をとらず直ちに腫瘤全部を摘出する特別な緊急姓は認められないこと、(四)さらに、本件手術後の千葉大病院の対応を見るに、前記認定事実によれば原告の左腕の機能麻痺を発見した古川医師は、直ちに手術中の小高助教授に相談に行つて指示をあおぎ、さらに神経科の山浦医師の診断を依頼し、神経移植手術を示唆されるや、出張中の佐藤教授に連絡をとり、即日原告を入院させ、小高助教授の手術終了をまつて直ちに右移植手術を行なつていることが明らかであり、その経過に徴しても千葉大病院が全く本件事故の発生を予測していなかつたものと認められることからして証人古川の前記証言は措信することができず、被告の前記主張はこれを認めることができないばかりか、却つて古川医師の執刀の誤りにつき以上の諸点からもこれを肯認することができる。

四損害

1  逸失利益 一二五五万七三四四円

2  積極損害 合計金 五五万四〇七五円

3  慰藉料 入通院に対し一〇〇万円、後遺障害に対し三〇〇万円

4  弁護士費用 一〇〇万円

〈以下、省略〉

(落合威 塚原朋一 原田晃治)

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